中国四千年の歴史が誇る三大悪女。
一体彼女たちはなぜそうなってしまったのか?
身の毛がよだつ数々の伝説を紹介!
たまに聞く「中国の三大悪女」って誰のこと?
中国の悪女たちって何をしちゃったの?
中国の三大悪女については日本の歴史の授業でも少し習いましたよね。
でもその悪女たちが何をしたのか?なぜそうなったのかについて覚えていない人も多いはず。
今回は「中国四千年の歴史が誇る最恐の悪女たち」を紹介します。
専門的な用語を使うと分かりづらいから超くだけた言い方に変えて伝えます。
それでは早速>>>
- 中国の三大悪女
- 三大悪女の伝説
- 彼女たちが眠る場所
- 実は四大悪女かも?
最恐皇后:呂雉(りょち)
プロフィール | |
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本名 | 吕雉 |
別名 | 吕后、漢高后、吕太后 |
生年月日 | 紀元前241年(月日不明) |
命日 | 紀元前180年8月18日 |
出生地 | 山東省単県 |
民族名 | 漢族 |
配偶者 | 劉邦 |
紀元前202年(約2200年前)「漢」と言う国が誕生し、「劉邦」と言う人が王様になります。
その王様(劉邦)の妻こそが後に語り継がれる最恐皇后「呂雉」。
呂雉とはどんな人?
呂雉は元々は悪女と呼ばれるには程遠いような女性でした。
夫である劉邦は毎日のように飲み歩き、ろくに家には帰らない人物であったにも関わらず、呂雉は献身的に家事を行い生活を支えていたようです。
一歩下がって夫を支える素敵な妻ですね。
呂雉はいつから凶暴になった?
上記で説明した通り、夫の劉邦は妻の呂雉にある程度迷惑をかけたことは理解しています。
そのことから劉邦が「漢」の王様になるときに、呂雉を皇后(女性としての最上位)とします。
これが悪夢の始まりです。
この時代は一夫多妻制。
正式な妻や2番目の妻などがいます。
- 正式な妻=呂雉
- 2番目の妻=戚姫って人
呂雉も戚姫もお互い劉邦との間に子供を授かります。
呂雉と戚姫はお互いに自分の子供を後継者(次の王様)にしたいと願います。
今現在でも、例えば会社を創業した社長は後継者を探しますよね?
実際に息子を後継者とするのはよくある話です。
これが一国の王様ともなれば、母親はどうせなら自分の息子を王にしたいと言う気持ちが強くなるのは当然です。
そして呂雉が凶暴になるターニングポイントこそがこの後継者争い。
通常なら正式な妻である呂雉の息子こそがすんなりと王様になるはずだったのに、戚姫と言う存在が邪魔になっています。
しかも、呂雉に対して戚姫はまだ若く夫の劉邦から非常に可愛がられていたと言われています。
いわゆる女の嫉妬ですね。数千年前から変わらない伝統です。笑
これこそが呂雉を最恐の伝説に変えるターニングポイントです。
呂雉は何をした?
んで、一体この悪女は何をしたのかってとこですよね。
答えはこちら。
後継者争いで邪魔な存在となっていた戚姫を徹底的に打ちのめす。
さらに言えば「徹底的に打ちのめす」ってどう言うこと?って感じですよね。
解説しましょう。
時は流れ、夫であり王様でもある劉邦が死去します。
するとここでは正式な妻である呂雉の息子が二代目の王様となります。
息子が王様となった呂雉からしてみればもうこの国は操り人形です。
そんな呂雉が第一に取り掛かったのが、散々自らを振り回した戚姫への復讐です。
まず手始めに戚姫の息子を毒殺します。
この毒殺も簡単にパッと殺害したわけではなく、この計画に気づいた呂雉の息子(王様)が戚姫の息子をなんとか守ろうとします。
それでも呂雉は執念深く追いかけ回し最終的に毒殺を成功させたのです。
この呂雉による戚姫の息子の殺害は軽いウォーミングアップのようなものに過ぎません。
この後さらにエスカレートしていきます。
戚姫に対し、息子が死んだことをあえて伝えます。
息子の突然死を知った戚姫は失意のどん底に落ちました。
それだけではもちろん気が済まない呂雉は戚姫を奴隷とし、両手・両足を切り落とす拷問を加え、さらには目玉をくり抜いたうえ薬で耳と声を潰します。
これでも怒りは収まらず手足・目玉・耳も聞こえず喋ることもできなくなった戚姫をさらし者にします。
古代中国ではトイレの排泄物を豚に処理させていました。
トイレの下が豚小屋になっていて、下にいる豚たちは排泄物を餌としていたのです。
呂雉はその豚小屋に戚姫を放り込みます。
その後、大臣たちを呼び戚姫を見せ物にしながら本人は笑い転げていたそう。
これがよく言われる呂雉による「人豚(じんてい)の刑」です。
人間のあらゆる機能を破壊したわけですね。その上で見せ物としてもて遊ぶと言う…
聞くだけでめちゃくちゃ痛いお話ですよね。
ちなみにこのお話は古代中国の歴史書、史記にも載っているお話です。
ですが、現代医学では両手・両足を切断された人間が生きているのは不可能だとされ、作り話であるとも言われています。
呂雉のお墓はどこ?
プチ情報ですが、呂雉の遺体は「陝西省咸陽市渭城区窯店街道三義村」と言う場所にある長陵と言うお墓で眠っています。
住所長すぎ。笑
かの有名な西安のすぐ近くですね。
西安周辺は古代中国の13王朝の都が存在していたことから、歴代の有名な王様たちの墓が多くある地域です。
日本で例えると京都と言えば分かりやすいかもしれませんね。
ちなみに西安は中国のネットユーザーから「どこを掘っても遺跡が出てくる」とも言われているほど、歴史的遺産が多く発掘されます。
例えば、2018年には近代化に伴う地下鉄の建設中には秦王朝の都の遺跡が見つかったり、工事現場の建設では数千個の古墳が出てきたり。
もう掘れば掘るだけ歴史的遺産が出てきます。
古代の西安がどれだけ繁栄していたかが分かりますよね。
すごく魅力的な都市です。
もう一つプチ情報。
呂雉の夫で漢の王様であった劉邦のお墓も呂雉と同じく陝西省咸陽市渭城区窯店街道三義村にあります。
それどころか目の前です。
2人とも同じ形のお墓で、道を挟んだところに位置しています。
夫婦で一緒に長い間眠っていることになりますね。
中国人の発祥と漢字のルーツ
ここまでの紹介を見て頂けたならば「劉邦」と言う人が居て、「漢」と言う国(王朝)があったことを知ってもらえたと思います。
実はこの「漢」こそが現代の中国人や漢字のルーツと言われています。
現代の中国はとても多くの民族が集まり一つの国となっているのはご存知の方も多いと思います。
その中での大部分(全体の約92%)を占めるのが漢民族です。
外務省が発表しているデータによると中国の人口は2021年11月8日時点でおよそ14億人。
その中の約92%となると大体12億8800万人が漢民族ということになります。
とんでもない人数でいかに漢民族が発展してきたかが分かりますよね。
なぜ彼らは「漢」民族と言うのでしょうか?
まさにこの漢王朝の人々が由来になっています。
当時は漢王朝の国民を漢族(漢人とも言う)と呼んでいましたが、漢王朝はその後400年と言う長い間支配することになります。これは中国王朝の中でも歴代最長となります。
ここまで長く漢の国が支配し続けられたのは圧倒的な文明で発達していったためです。
勢力を伸ばしていく中で漢の国の国民になるひとはどんどん増えていきました。
当時は何か難しい手続きがある訳ではなく、漢の国の思想や文化を重んじればみんな漢民族となれました。
このようにしてどんどん漢族は増えていきました。
この古代に大繁栄をした人々が現在の中国人のほとんど(漢族)の祖先です。
漢字のルーツは?
元々漢王朝の人々が使っていた文字が由来と言われています。
当時の周辺国にはまだ文字はなかったそうです。
そんな中、圧倒的に文明が発展していたため漢では文字が既に使われていました。
その後だいぶ遅れて周辺国も漢の文字を真似して文字を作り始めます。
これがターニングポイントです。
漢族本人たちの間ではただ単に「文字」でしかありませんでしたが、周りは自分達の文字と区別して「漢の人たちが使っている字=漢字」として区別するようになったそう。
こうして漢字の呼び方が「漢字」として固定されるようになっていきました。
ちなみに「中国語」を中国語では「汉语」と言います。
これは中国で使われている簡体字なので、日本の漢字に直すと「漢語」です。つまり、「漢の言葉」なんですよね。
中国文明において「漢の人々」がどれだけ重要かが分かりますよね。
中国四千年の歴史唯一の女帝:武則天(ぶそくてん)
プロフィール | |
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本名 | 武曌 |
別名 | 武則天、武媚、武后 |
生年月日 | 西暦624年2月17日 |
命日 | 西暦705年12月16日(81歳) |
出生地 | 四川省广元市 |
民族名 | 漢族 |
配偶者 | 高宗 |
周朝(周の国)の皇帝(王様)であり、中国歴代皇帝の中で唯一の女性です。
「則天武后」とも言われますが、現代の中国では武則天と言うのが一般的なのでここでは「武則天」とします。
武則天とはどんな人?
武則天は非常に裕福な家で生まれ、たくさんの愛情を注がれて育ちました。
そのため教養も惜しむことなく身につけさせてもらえ、英才教育だったようです。
そのうえ美貌も兼ね備えており、全てを持ち合わせた誰もが羨む美人女性でした。
一見順風満帆に見える人生ですが、12歳の時に父が急死します。
それからは従兄弟などの親戚にいじめられ苦しい生活を送ることになります。
そして少し時は流れ、武則天が14歳の時、後宮(王室のようなもの)に入ることになります。
これがターニングポイントです。
武則天は何をした?
王室に入った武則天は幼い頃から英才教育を受け培ってきた教養、持ち合わせている美貌で王様や皇太子を翻弄していきます。
結果、王様は警戒心が強く落としきれなかったものの、その息子(皇太子の高宗)を落とすことに成功します。
がしかし、現王様が死去すると訳あって一度出家することになり後宮を離れます。
王様が死去したためその息子である高宗が王様となるものの、この頃王室内では王皇后と蕭淑妃(しょうしゅくひ)と言う人たちが高宗の1番の妻(この頃は一夫多妻制)になりたいがために争っていました。
溺愛されていた蕭淑妃を王皇后はよく思っておらず、高宗から引き離したいがためにあることを高宗に提案します。
それは武則天を後宮に戻すことです。
まだ先代の王様が君臨している頃から、高宗と武則天が愛し合っていることを王皇后は知っていたのです。
そのため武則天を呼び出せば高宗と蕭淑妃を引き離せると考えました。
しかしこれが王皇后にとっては自らの死を招くことになります。
そうして後宮へと戻ることになった武則天は高宗の1番の妻(皇后の地位)を奪うことを計画します。
その陰謀計画がこちら
後宮へと戻り、武則天は高宗との間に子供を授かります。
その出産祝いとして王皇后は武則天の部屋を訪れます。
しかし武則天の姿はなく赤ん坊だけが取り残されていました。
そこで王皇后は赤ん坊をあやし部屋を出ます。
このタイミングを武則天は狙っていました。
なんと自らの子の首を絞め殺害します。
その後高宗が子供の様子を見に武則天の部屋を訪れると赤ん坊がなくなっていることに気づきます。
そこで武則天は「王皇后が殺した」と訴えるのです。
実際に王皇后が武則天の部屋を訪れるのも目撃していた人物もいたため、高宗は武則天の嘘を信じてしまい王皇后を逮捕、代わりに武則天を皇后とします。
この頃、なぜか蕭淑妃も陰謀罪として逮捕されています。
こうして武則天は自らの子を殺すことで皇后の地位を手に入れます。
第二の計画
逮捕され自由がきかない2人(王皇后と蕭淑妃)を徹底的に打ちのめします。
しかし、この2人は武則天に対して特に嫌がらせはしてません。
ただ、以前自分より上の地位にいたのが許せなかったのかもしれません。
どう考えても理不尽すぎますよね。
武則天は監禁されているそんな2人の両手・両足を切り落とし酒壺に入れたそうです。
両手足がない2人は自ら出ることもできず、その様子を武則天は楽しんでいたそう。
でも武則天が王皇后と蕭淑妃の2人の両手・両足を切り落として楽しんだと言う話はフィクションだと言う説も濃厚です。
有名な話であるため今回は記載しました。
中国史上初で唯一の女帝の誕生
武則天は皇后であると共に病弱であった高宗の代わりに、実質的な政治を主導していました。
幼い頃から学問も学んでいたため、教養には長けていました。
しかし、このように王様の代わりに政治を行うことをよく思っていなかった武則天の息子の1人が(武則天の子供は4男1女)は批判していました。
するとその息子は24歳で急死します。これも武則天による毒殺です。
そうしている中、夫で王様である高宗が死去します。
皇帝不在なので次の皇帝を決める必要があります。
そこで息子の1人を即位させますが、息子の妻が自分と同じように権力を手に入れようとしているのをしり、この息子は皇帝から落とされます。
このように自分に対して批判的な人物はことごとく遠ざけたり関与させないようにします。
そして最終的に自分の抵抗できない(操り人形)の息子のもう1人を皇帝とします。
武則天はこの操り人形を使い政治を進めていく訳ですが、遂に自分自身が皇帝となることを決意します。
こうして中国4000年の歴史で初めて、そして唯一の女帝が誕生します。
そして新たに「周」と言う王朝(国)が誕生しました。
武則天の最後
最終的に武則天は実の息子に裏切られ最後を迎えることとなります。
その実の息子とはまさに、1度皇帝に即位させたが妻の陰謀のため遠ざけた息子です。
これらが仲間を連れてクーデターを起こしにきた訳です。
既に年老いてきていた武則天は気力もなくなってきており、そのまま手に入れてきた地位をあっさり奪われます。
しかし一応家族と言うこともあってか息子から処刑されることはありませんでした。
武則天のお墓はどこ?
武則天の遺体は「陝西省咸陽市乾県」にある乾陵と言うお墓で眠っています。
位置は西安からおよそ85km西北に進んだところ。
またしても陝西省の西安付近ですね。
夫である高宗と一緒に眠っています。
唐十八陵と呼ばれる唐時代の重要な人物たちのお墓の中でも保存状態が1番良いと言われています。
また、2人の皇帝が一緒に眠っている中国の歴史で唯一のお墓でもあります。
事実上の皇帝:西太后(せいたいごう)
プロフィール | |
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本名 | 叶赫那拉氏 |
別名 | 西太后、那拉太后、老佛爷、孝钦显皇后、慈禧太后 |
生年月日 | 西暦1835年11月29日 |
命日 | 西暦1908年11月15日 |
出生地 | 北京市 |
民族名 | 満族 |
配偶者 | 咸豊帝(かんぽうてい) |
最後の1人は西太后。
名前を聞いたことがある人も多いんじゃないでしょうか?
そして一気に最近になりましたね。最近と言っても100年以上前ですけど。笑
上に載っている写真は本人です。
この時代になってくるともう既に写真があります。
西太后とはどんな人?
西太后は清朝の時代を生き抜いた人物。
小さい頃から父親の躾は厳しかったが、その代わりに教養は身についたとされています。
が、諸説あり実は貧しい家で生まれたとも言われており、中国国内でも西太后の幼少期に関しては関してはハッキリしていません。
数え年の18歳で後に夫となる咸豊帝の王室に入り、その後咸豊帝との子供を授かります。
その子供は後に清の代10代皇帝となる同治帝と言う人物です。
実はこの西太后は咸豊帝の1番の妻ではありませんでした。
東太后こそが1番の妻であり、2番目が西太后でした。
しかし、東太后と咸豊帝の間には男の子がおらず、男の子を産んだ西太后がこの後どんどん地位を築き上げていきます。
西太后は何をした?
夫である咸豊帝は30歳で若くして亡くなります。
その後、息子の同治帝が王様となるもののまだ5歳と幼いため、西太后は後ろから政治に参加します。
ちなみに王様が幼かったり、病気で政治が行えないなどの場合に代わりに皇后などの女性が政治を行うことを垂簾聴政と言います。
このようにして西太后は政治を行うようになると、手始めに子供が皇帝になることを批判してきた前の王様の手下たち8人を片っ端から抹殺していきます。
圧倒的な権力を発揮し自らの邪魔になる存在を次々と消し去っていくようになったのです。
後に東太后も謎の死を迎えますが、西太后の暗殺だとも言われています。
真意は最後まで定かにならなかったので迷宮入りではありますが、西太后の近くにいた人物の多くが亡くなるケースは多々ありました。
西太后は三大悪女で紹介した他の悪女(呂雉と武則天)とは少し違い、とにかく権力への欲や自己中心的な考えが強かったと言われています。
実際に以下のようなエピソードがあります。
- 国内が食料が回らず飢餓状態にあるにも関わらず、自分だけ超豪華な食事(数万人分と言われている)
結果1000人ほどが餓死したとも言われている。 - 日清戦争では全ての規模が少ない日本にボロ負けしたが、その途中に迎えた自身の誕生日は盛大に祝うため「軍艦に使うはずだったお金を自分の誕生日会に使用」
- 外国との戦争中でも自らは何もせず、ボロボロに負けても他人のせいにする
- 内部用スパイを育成し、自身に批判的な者は処刑
特に日本が日清戦争で勝てたのは「西太后が王様」だったのが大きく影響しているとも言われています。
そのぐらい何もせず、使えない王様だったと言うことです。
軍艦とか戦争に使わなきゃいけないお金を自分の誕生日会なんかに使ってたらそりゃ負けますよね…
他の悪女(呂雉と武則天)は残虐な処刑などをしていたものの政治はしっかり行っていたのに対し、西太后は全く国の繁栄に役に立っていなかったとも言われています。
いや、むしろ西太后のせいで国の状況は最悪になったと言われています。
実際に呂雉と武則天は政治でも実績を残し、国を繁栄させています。
しかし、西太后はと言うと国のことを何も考えず自分だけを優先していたため、西太后が遊び尽くして人生を終えた後3年で辛亥革命により清は終わりを迎えます。
この通り一国を滅亡させました。
西太后の最後
1908年11月15日(午後2時前後)、中南海にある仪鸾殿(お城のような建物)にて昼食をとった後、呼吸困難になり亡くなったとされています。
また、息子の同治帝は実は19歳と言う若さで亡くなっています。
当時王様だった同治帝が亡くなったため、次の王様を選ばなければならず、西太后は甥っ子である光緒帝を王様とします。
この光緒帝も即位したのは4歳だったためまたしても西太后が後ろから政治を行うことになりますが、光緒帝は大きくなると次第に西太后をよく思わないようになっていきます。
この光緒帝は西太后が亡くなる前日の1908年11月14日に亡くなります。
2008年北京警察の法医学研究所などの専門家による光緒帝の毛髪検査が行われ、大量のヒ素が検出され、光緒帝は毒殺されたことが結論づけられています。
最終的な真相は迷宮入りになってしまっていますが、西太后が毒殺した可能性があるとされています。
西太后のお墓
西太后の遺体が眠るのは河北省唐山市遵化市にある清東陵と言うお墓です。
北京の東北方向ですね。
清東陵とは清王朝の皇帝や皇后など重要人物たちが埋没されており、なんとその数は150人近くに及びます。
もう1人の悪女:妲己(だっき)
中国の4大悪女ともされているもう1人の悪女が妲己です。
なぜもう1人と言う枠組みにしているかと言うと「実際に存在していたか怪しい」とされているからです。
実際には存在しなかった説が有力とも言われているので簡単に紹介します。
ちなみにこの話で出てくる殷(いん)王朝は紀元前1700年頃〜紀元前1000年頃にあったとされる王朝(国)なのでめちゃくちゃ前のお話。
妲己とはどんな人?
中国の歴史で恐らく1番古く美人だったと言われている人物で、その美貌で殷の王様を虜にし、言うことをなんでも聞くようにさせたと言われています。
その結果、殷王朝を滅亡に追い込んだとされている。
妲己は何をした?
妲己は王様に数々の謎のお願いをし、実行。
例えばこんなもの
- 酒池肉林=お酒で作られた池を男女たちが裸で泳ぎ(本人も参加)、疲れたら肉を食べまくるパーティー
- 炮烙の刑=油を注いだ鉄の板を用意し、その下には薪で燃え盛る炎を用意。王政に批判的な人物を、その上を歩かせるが鉄は超高熱になり、さらにヌルヌルで人は落ちていく。渡れるはずのないゲームを王様と2人で鑑賞し楽しむ
とにかく常識では考えられない所業なんですが、王様も王様です。
妲己の最後
周と言う国に攻められた際に殺害されたと言われている。
まとめ
最後までご覧いただきありがとうございました。
最後に簡単にまとめます。
中国3大悪女は以下
- 呂雉
- 武則天
- 西太后
- +妲己(実在したかは不明)
彼女たちの行いは残虐的なものや理不尽なものばかりでしたね。
以上、参考になれば幸いです。
それではまた!